映画「苦い涙」はヘテロ・セクシュアルを超える愛の深さと恐ろしさを炙り出した「ベニスに死す」のアプデ版⁈
恐ろしくも完璧に構築された舞台芸術をフィルムに収めた──というのが表向きの本作に対する評価としよう。
功成り名を遂げた映画監督のピーターは、仕事のオファーの電話への対応から”なりふり”を構う、すなわち“武士は食わねど高楊子”的気質のアーティストであることが、冒頭数分のやり取りで示される。
しかし、母親との電話になると幼児性が顔を出す。
その本性とも言うべき彼の偏愛によって周囲を巻き込んでいく(いや、実は彼が巻き込まれていくのだが)さまを描いたのが、大方のストーリーということになる。
偏愛がむき出しとなるきっかけは、23歳の若く美しい青年、アミールとの出逢い。その瞬間からアミールに心を奪われてしまったピーターは、彼を映画に起用し、その成功によってアミールは注目の俳優という地位を手に入れる。
このあたりまで、痴話げんかを含めて中年のオジサンがギリシャ彫刻のような若者とイチャつくシーンがふんだんに盛り込まれているが、観る者を辟易とさせるのもフランソワ・オゾン監督の思う壺だったことが後半になってわかってくる。
映画終盤に向けて、ピーターは壊れたように去っていってしまったアミールの幻影を追い続け、悲惨感が濃くなってゆくところでピーターの誕生日を祝うために娘(ピーターの妻はすでに亡くなっている)、母、かつての恋人で女優として成功しているシドニー(彼女がアミールをピーターに引き合わせた)がピーターのもとへ集まるが……。
キーワード
ピーターが初対面のアミールに「君の夢は?」と問うと、アミールは「夢はない。自分の居場所を見つけるだけ」と答える。
著名な映画監督を前にして、容姿に自信のある無名の若者が答えているわけだから、アミールは本音を吐露しただけとは考えにくく、この千載一遇のチャンスをものにすべく練られた台詞だったと想像できる。
つまりアミールは、シドニーに連れられてピーターを訪ねることになった時点で、自分をどう演じるかを決めていたということだ。
そしてピーターは、アミールの撒いた餌を丸飲みしてしまったことになる。
このあたりの伏線や心理的な駆け引きが緻密に描かれているので、後半に至ってもダレることなく、これがあの部分の回収になるのかと、サスペンスを楽しむような感覚でストーリーを傍観できる。
そう、傍観なのだ。
とても登場人物に入り込めるような設定ではないのだけれど、疎外感を抱かせない絶妙な距離感が、ラストの暗転まで続く。
傍観という言葉を思いついて、本作におけるカールの存在の重要性に思い至った。
カールはピーターのアシスタントとして事務所を兼ねたアパルトマンの部屋を仕切っている。
無言でピーターの無理難題をすべて処理し、その生活空間で起きる痴情のもつれまでをすべて傍観するカールは、おそらくピーターの“正気”を具現化する人格なのだろう。
カールが部屋のカーテンを開けるところから映画は始まり、彼が出て行くところで映画は幕を下ろす。
附言
タイトルどおり、苦い後味の映画だ。
これほどの苦味をしっかりと伝えるフランソワ・オゾン監督のスゴさを改めて実感できるだろう。
登場するのはほぼ6人、室内のシーンばかりと、まさに舞台を観ているような構成で、引用的なシーンや振り返りなどもない。
それだけに、途中から姿を見せなくなるアミールと、その幻影に惑わされるピーターの心理が浮き彫りになっていく。
若い美男に執着して破滅するストーリーと言えば、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「ベニスに死す」を思い出すが、より濃密で、ヘテロ・セクシュアルでは描き切れない”愛”の心理を表現したという意味でも、21世紀の名作に名を連らねると言えるのではないだろうか。
また、「ベニスに死す」ではグスタフ・マーラーの交響曲第5番を“劇伴”とし効果的に使用していたことでも知られているが、対して本作では、ピーターが自ら聴くため(あるいは踊るため)に劇中で使用する。
つまり、観客とともに演者も同じ曲を聴いているという、音楽に関しては“傍観”ではなく“当事者”であることを求める演出がなされているところが、興味深かった。
「苦い涙」6月2日からヒューマンとラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次公開