写真はジェンダーフリーと多様性、さらに声の可能性を引き出してくれた、という齋藤陽道の言葉の向こう側[読書memo]

「熱風」2022年9月号の巻頭特集に、写真家の齋藤陽道のメールによるインタビューが掲載されていた。

タイトルは「写真は『声』の可能性を広げてくれた大事なもの」だ。

彼は生まれつきの感音性難聴で、発音練習をして公立小学校に進んだものの、ハンディを克服できずに悩み、高校進学でろう学校を選ぶ。

そこで人生観がひっくり返るほど、人とのコミュニケーションがとれることの喜びを知り、その嬉しさを現わすように写ルンですでさまざまな景色を写すようになったそうだ。

そこから始まった齋藤陽道の写真家としての歩みは、やはり特異なものとなったようだ。

掲載されている彼の作品を見ても、独得の”時を止めた世界が表現されているように思う。”時が止まっているということは、無音であるということ。

そんな彼が、自分の写真家としてのポジションを語った言葉がとても興味深かった。

あえてこう書かせてもらいますが「女性写真家」が増えてきたことの先には、心身に特徴のある人の感性が活かされた写真の道が続いていくだろうとも感じていました。
「心身に特徴のある人」とまどろっこしい書き方をしましたけれども、「障害者」と言いたくないんです。こう書いてしまうといかにも何かわかった気持ちになってしまうので、それはやっぱりレッテルですし、そうしたレッテルを通して写真を見られることも不本意です。

これは、明らかに身体の拡張性のうえに写真および撮影という芸術行為が存在していることを認識している言葉だろう。

そして、被写体との向き合い方にも興味深い気づきがある。

齋藤陽道は、専門学校を中退したあとしばらく、障害者プロレスに参加。試合後にリング上でポートレート撮影をしていた。

とてもいい写真が撮れます。必ず。試合の時は、何かしい言葉を交わしたわけではないのに、この経験を何回か重ねて、「あ、身体の声で話していたんだ」とわかって。
長年、音声だけが言葉のすべてだという思い込みに囚われていたのですが、まず、手話がその思い込みを壊してくれました。
そして写真を通して、身体のぶつかり合いもコミュニケーションなのだと知ります。

そして彼が体得したものが、次の発言に込められている。

ぼくにとっての写真は、「声」の可能性を広げてくれた大切なものです。

このメールインタビューを読んでいて頭に浮かんだのは、藤原新也のことだった。カメラを手にした経緯も似ているように思えるし、視覚データをトレースするのではなく、「声」すなわち撮影者の撮影対象との会話が記録されたものなのだ。

自分もスマホのカメラを使うときにメモ、すなわち視データを保存するだけで、そこに会話はほとんど発生しない。しかし、記録ではない写真を撮るときに、相手を感じていないことは意味のあることなのか──というテーゼを、齋藤陽道のメールインタビューは示してくれたような気がする。