「アンドリューNDR114」は感動作ではなく人間の尊厳と平等を考えさせる”問題作”なのではないか?

BS日テレでロビン・ウィリアムス主演の1999年公開映画「アンドリューNDR114」を放映していたので録画して観た。

公開当時、なんとなくロビン・ウィリアムスのおもかげのあるロボットを用いた宣伝映像が流れていたのを記憶しているのだけれど、実はそれが自分の心のなかの映画への興味と結びつかずに本作を観る機会を逸してしまうことにつながった。

それに、ロビン・ウィリアムスとヒューマン・コメディという“セオリーができあがった感”が強かったことへの、ヘソの曲がった抵抗もあったんだと思う。

それから20数年。映画で設定されていた“未来”もいろいろと超してしまっただろうし、SF的なギミックを気にせずにストーリーを客観視できるんじゃないかと思って録画予約したのだ。

ボクがこの映画で想像していたのは、りんたろう監督の「メトロポリス」(2001年)みたいな展開だった。だけど、冒頭15分ぐらいでそれが見当違いだったことに気づかされる。

『アルジャーノンに花束を』のような展開もアリかなと思っていると、それも肩すかし。

そう、予想をどんどんブッちぎっていくスピード感がこの映画のおもしろさのひとつ。

なんたってヒューマンドラマなら無理に進めにくい時計の針を、ロボット→アンドロイドが主人公なのでガンガン進められちゃって、そのシーンチェンジの激しさもまたストーリーへの吸引力になっているのだ。

後半は技術革新の限界と倫理に触れる重いテーマになっていき、セリフには人種差別や尊厳死を連想せずにはいられないキーワードが盛り込まれている。

ラストシーンはチャップリンの「モダンタイムス」を彷彿とさせ、胸に迫るものが・・・。

20数年前には感動しなかったろうけど(理解しきれなかっただろうけれど)、終活を考える世代には刺さるんじゃないかな。