「知識3.0」を考えてみた

ネット記事で、Society5.0というワードが目に止まりました。

Society5.0について

織田信長が舞ったという幸若舞「敦盛」の一節に「人生50年」とあります。400年ほど前のことですね。

さすがに世の中は狩猟社会ではなかったものの、江戸から明治にかけて農耕社会から工業社会へと発展、現在は情報社会へと変革してきました。

こうした変遷を、狩猟社会をSociety1.0として、農耕社会(Society2.0)、工業社会(Society3.0)、情報社会(Society4.0)と呼び、これから訪れようとしている超スマート社会を称しているのがSociety5.0ということです。

将来はいろいろと予測されますが、Society5.0として必要な要素に知識があり、ラーニング・ソサエティという環境が重要であることは誰もが認めるところでしょう。

つまり、知識が社会の基盤となり、それを学ぶ環境が欠くことのできないインフラにならなければいけないという、セットであるべきものだということになります。

その2つを結ぶのが「知識3.0」です。

「知識3.0」について

スキルやノウハウに加えて、それらを支え、突き詰めるべき場所にある知識の重要性は、総合知などという呼び方で1970年代ごろから注目されるようになったと記憶しています。

「知識基盤社会」の特質として①知識には国境がなく、グローバル化が一層進む、②知識は日進月歩であり、競争技術が絶え間なく生まれる、③知識の進展は旧来のパラダイムの転換を伴うことが多く、幅広い知識と柔軟な思考力の基づく判断が一層重要となる、④性別や年齢を問わず参画することが促進される、の4つを例示している。

Society5.0時代に活用されるメタ知識「知識3.0」

この記事では、ダニエル・ベルが『脱工業社会の到来』(1973年刊)で知識社会の産業社会に与える影響を指摘していたことを挙げ、理論的な知識が活用され社会の中心となると、財の生産からサービスの生産に比重が変わることで知識生産に経済活動が意向することの2つの主張を引用しています。

こうした関係性は、すでに1968年のP・F・ドラッカー『断絶の時代』でも予見しているとして、「知識の生産性が経済の生産性、競争力、経済発展の鍵」という一文も引用しています。

ラーニング・ソサエティの重要性

知識がこれからの社会に重要なことは指摘されていたわけですが、それを学ぶ環境の大切さは、社会状況の変化によってだいぶ様変わりしています。

というのも、新たな知識によって社会が変化し、その知識がすぐに陳腐化してしまうからです。そして、その「知識の進展はパラダイム転換により根本から変わる可能性がある」ということです。

ということは、知識は常に不安定で、ゆえに更新が必要になる、つまり学んだら終わりということではない社会が訪れようとしていることになります。

これについてドラッカーも、知識社会において継続教育が重要であると説いています。

情報化社会と知識3.0

リテラシーやエビデンスといった、情報に対する理解度が問われる状況が増えてきていると感じている人は多いのではないでしょうか。

知っていることよりも、それが正しい根拠を理解しているのか、それが現時点でも正しいままであるかどうかを確認しているのか。

知識よりも更新作業をしっかりとやっているかどうかを問われる時代が、「知識3.0」ということなのでしょう。

「知識3.0」を簡単に定義すれば、メタ知識である。つまり、「知識を収集し、系統化と解釈を通じて、問題解決のために活用する知識」である。よりわかりやすく言えば、「この知識はどこでどのように活用できる知識なのか(知識を使うための知識)」を把握する知識である。このときの知識は、いわゆる科学的知識に限定されない。実践に土着した知識体系から、宗教的知識、芸術、もちろん自然科学や哲学までさまざまな知識の領域すべてを包摂するものである。

Society5.0時代に活用されるメタ知識「知識3.0」
知識のバージョン

「専門化された知識は、社会や組織で位置づけ他の知識と連携させることで役立つ」というスタンスは、これまでの学びとは異なる知識へのアプローチが必要であることを教えてくれているのだと思います。

応用性のない知識は価値がないというフェーズから、どんな知識であれ、それを社会に活用できる術を見つけることに意味があるというスタンスですね。

この考え方はなかなか意義のあるものだと感じたので、メモしておくことにしました。