正しくないことを言ったり書いたりしてはいけないけれど、それを正しいかどうか判断するのは自分ではないのです

 
コミュニティの「失礼な人たち」について書かれた記事がおもしろいものでした。

 

いくら正しくても、失礼だと敵視され、殺されてしまう。

 

この記事にも「失礼は相対的なもの」と指摘されているのですが、往々にしてこの範囲は広げられる傾向にあります。

相手を罵る言葉は「失礼」の賛同を得やすいものでしょうが、相手の間違いを指摘することも「失礼」な行為としてとらえられ、これが指摘した側の致命的になることもあるというのです。

ボクの周辺では、この手の話は「地雷を踏む」という言葉で表現して、踏まずに利を優先すべきなのか、踏んでも虎児を得ればいいのかといった論争が酒の肴になったりしていました。

記事では、人言動氏は所詮、話し合ってもわからないことが多く、その理由は「失礼」と感じた感情が優先されることで、相手と冷静に向き合えなくなってしまうからだとういもの。

例として、ソクラテスは正しかったけれどもぶしつけにそれを伝えたから殺されたというのも。

なるほど。

では、このコミュ障はどうすればいい方向に向けられるのかと言えば、とことん相手の追従する姿勢を示すしかないらしい。

確かに、そうした姿勢を「礼儀」であるとすることも多いからね。

ここから学ぶことは、「正しい」ことは伝わるのが当然と考えるのではなく、伝え方の工夫が必要であるということ。

いやいや、それはなにも、「正しいこと」だけじゃなかったですよね。

すべてにおいて、伝え方の工夫は大事です。

伝え方を大事に思うと言うことは、相手を大事に思うと言うこと。

そう考えれば、当たり前のことを言っていただけですね。