“紙”か“電子”かという器の問題ではなくもっと“編集”の本質を考えることが雑誌には必要ではないだろうか
この記事は、2014年12月にアップして、消えてしまったものの再アップです。
雑誌「Pen」の「もうすぐ絶滅するという、紙の雑誌について」という特集は各方面で話題になっているようだ。
もちろん、それは編集部の「してやったり」ではあるのだろうけれど。
雑誌は本当に絶滅するのか? | 林伸次(bar bossa)
この著者は、渋谷のワイン・バーbar bossa(バール・ボッサ)というお店の……
マスターということらしい。
たまに雑誌に取材されることのあるBARの経営者としてはこんな印象があります。
開店した17年前の頃は本当に雑誌の影響はすごくありました。雑誌の発売日の次の日から満席が続きました。
でも最近はそうでもありません。「雑誌を見た方だなあ」と感じるのが数組という感じです。
こういう印象をもっている飲食店関係者は多いのではないだろうか。
雑誌に掲載されるのはもともと“カンフル剤”と呼ばれるような瞬間的な効果しかないように思われていたが、それでも“カンフル剤”としての効き目があったときはそれを承知で注入していたのだろう。
ところが、効き目も薄くなってしまうと、打つか打たないかというところまで立ち戻ってその存在意味が問われる。
雑誌はそこまできているのか、という印象を強めているわけだ。
インターネットは「点と点」のままなのですが、ちゃんと取材した音楽雑誌はその「点と点」を繋げて僕たちに説明してくれる(攻略)
これがキュレーションの本質であり、さらに高めていかなければいけない部分でもあると思う。
編集者のモチヴェーションはかなり下がっていると想像するが、「まとめ」の意味を再認識し、新たな情報発信の拠点としてなにができるかを考えることこそ、雑誌の存続の可能性と、編集という作業の楽しさを高めることになると思うのだけれど、いかがだろうか。